父は戦争をあまり知らなかった。
(そのことを私は知らなかった)
父の父、つまり私の祖父は電力会社に勤めていて軍事施設に安定的に電力を送ることを
仕事にしていたので、徴兵されず戦地には赴いていない。
しかし、兵隊さんと同等の待遇を受けていて、食料等の配給は潤沢だったようだ。
父は8人兄弟なので、祖父と祖母を合わせて10人家族が食べていくには楽ではなかったはずだが、
祖父は魚釣りが趣味だったので私が知る戦中、戦後の食卓より恵まれていたようだ。
それでも今より充分貧困なのだが。
ほんの10年ほど前まで建っていた旧家の玄関先にも焼夷弾が着弾して、家族総出で火を消し止めた
そうだ。
当時、小学4年生の父は戦火を避けて一人で親元を離れることになった。
疎開である。
兄弟8人のなかで疎開経験があるのは父だけだったそうだ。
農村なだけに都会に比べれば食べ物はあったが、それでもサツマイモだらけの薄いお粥、イナゴの
佃煮など飢えをしのぐには何でも食べるしかなかったのだ。
子供たちには信じられない生活で衝撃だったようだ。
いかに今の自分たちが贅沢か、それに少しでも気がついただけでも充分価値があった。
夏の工作:カメ
私も高校生の3年間は全寮制の野球部で厳しく鍛えられた。
下級生の頃は食べるものも充分に与えられず、入浴、洗濯(すべて学生で運営していた)は
先輩の都合次第で睡眠時間を削る以外自分の自由になる時間はなかった。
種類は違うが親元を離れて、空腹に耐えるという意味では同類の経験がある。
戦争が終わって、街が復興していく様子、 餅つき、五右衛門風呂など生活風習を話した。
それから新幹線が開通し今なら2万円ほどする照明の特殊技師の日当が700円だった当時、
大阪から東京までの切符代が6000円だったこと。
やがて私が生まれ、成長する過程を話した。
自分たちの夫が父親がどうやって育っていったか、生い立ちを育てた本人に聞くのは興味深く、
面白かったようだ。
私はこの間、寝たふりをしていた。
起きていては遠慮があるどろうと、一応配慮したつもりなのだが、、、。
当たり前のことなのだが、この父親がいて私がいる。
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